「話すだけで、何になるの?」
昔の私は、心のどこかでそう思っていた。
もしかしたら、冷笑的に聞こえるかもしれない。
でも、そうではなくて私は「解決以外の答え」があることを知らなかったし、知りたかった。
そして、その問いに真正面から答えてくれる人には、出会えなかった。
心のことを学びたいと思ったきっかけは、職場で受けていた相談と、
それを解決するために読み始めた心理学者である河合隼雄氏の本との出会いだった。
とても読みやすくて、読後感は「良い話を聞いたなぁ」という感覚。
それなのに、正直なところ、内容はよくわからなかった。
でも、ページの向こうから伝わってくる、河合氏の「心と向き合うまなざし」。
それに私は、惹かれていたのだと思う。
まだ言葉になっていない想いを受け止めようとするまなざし。
表面的な行動や問題よりも、見えていない背景や、そこにまつわる心の動きに目を向けようとする真剣な想い。
それは、私の中にあった「わかってほしい」という願いの、裏返しだったのかもしれない。
――原家族の中で、私の心は、ずっとひとりぼっちだった。
それに気づいたのは、心理学を学び始めてからのことだった。
ああ、だから心理学に惹かれたのか・・・
人の為に学び始めたはずが、結局自分の為だったのだと気づいてしまった。
そうであればまずは自分の問題を「伝えなければ、解消しなければ」と思って、
ある日、両親にそのことを伝えた。
返ってきたのは、「そんなふうに思っていたなんて知らなかった」「悪かったね」という言葉。
そして、どこかで私は、「じゃあ、もう許さなきゃいけないのかな」と思った。
「謝ったんだから、もうその話は終わり」
――いつものパターンだった。
いや、言えただけ、いつもとは違ったはず。
……けれどだからこそ、余計に感じた不全感。
その気持ちを、感じないようにしていた。
そしていつしか、さらに「話しても何にもならない」と思うようになっていった。
カウンセリングというものにも、どこか距離を置くようになっていった。
そもそも、解決したいなら自分で考えればいい。
私は、問題を整理して解消するのが得意だった。
感情は、やっかいなもの。
コントロールしなければならないもの。
そして、コントロールできることが「良いこと」だと信じていた。
(もちろん、社会的にはそうなのかもしれないけれど)
そうやって、なんとかその場その場を切り抜けてきた。
あとになって、「過剰適応」という言葉を知ったけれど、
あの頃の私は、まさにそれだった。
「ちゃんとしている私」でいることで、自分を守っていたのだと思う。
でも、ソーシャルワーカーとして働き始めて、
私はいつの間にか、相談に来た人たちの話を、じっくりと聴くようになっていた。
心理学を学んでいた土台があったからというのと、スーパーバイザーに心理士を選んでいたというのも関係していると思う。
気づけば、「普通のソーシャルワーカー」とは少し違うスタイルになっていた。
そして、何人かの相談者に言われた。
「こんなにちゃんと聴いてもらったのは、初めてです」
その言葉が、私の中の、鍵をかけて閉ざしていた扉を静かに、叩いていた。
……たぶん、本当は、私がそうしてほしかったのだと思う。
「あなたの声をちゃんと聴いているよ」
そう言ってもらえることが、どれほど救いになるのか。
私は、ずっと知らなかった。
自分のことを話すなんて、意味がない。
そう思っていたのは、
「話してもどうせ伝わらない」という、寂しさの裏返しだったのかもしれない。
だから私は、自分がしてほしかったように、人の話を聴いた。
言葉にできない想いも、ちゃんと聞き逃さないように、まっすぐに。
簡単に納得できなくても、当然。
社会的には否定されやすい「でもでも、だって」の中にこそ、
その人にとって、大事な想いがある。
それは、聞いてもらう必要があるものだと思っている。
そしてあるとき、私自身も、“話す”という選択をするようになった。
カウンセリングの中で話すことで、少しずつ、
自分でも気づいていなかった想いが、浮かび上がってきた。
整理して終わらせたはずの感情。
“わかっているつもり”だった自分。
その奥に、まだ声になっていない気持ちがあった。
うまく話せなくても、涙になってしまっても、
「わかろうとしてくれる誰か」がいるだけで、何かがほどけていく。
他者のまなざしの中で、ようやく見えてくる、自分という存在の輪郭。
それは、簡単に「こうだ」と言えるものではなかった。
正解があるわけでもない。
気持ち良いだけでもないし、苦痛なこともある。
私は、自分のことをたくさん考えてきたし、何より勉強もしてきた。
自分自身をチェックすることも怠ってはいなかった。
――それなのに
戸惑っている私に、セラピストは言った。
「心がふたつある必要があるんじゃないかな」
そうなんだと思う。
知ってはいたけれど、わかっていなかったこと。
ようやく、腑に落ちた気がした。
もし今、「話すだけで何になるの?」と思っているあなたがいるなら――
その疑問ごと、話してみるという選択も、あっていいのかもしれません。
あなたの中にある「わかってほしい」という願いは、
それだけで、もう十分に尊いものです。
話すことで何かが変わるかどうかは、わかりません。
でも――
話さなければ見えないものがある。
私は、それを、自分の経験の中で知りました。
心の奥にあるその想いに、どうかあなた自身が、やさしく触れてあげられますように。

